津山市加茂町行重[津山事件 三十人惨殺現場](2010/01/30)

 

久々の更新となりました。

さて、今回は鳥取・岡山の県境近くにあるポイントです。

ここは、かつて日本犯罪史上最悪の惨劇が起こった現場です。

いつも通りマップから

岡山県津山市 JR美作加茂駅を目指していけば直ぐに分かります。

そこから、県道68号線を「坂元・行重方面」に向かいます。

しばらく進むと、貝尾集落が見えてきます。

そこが今回の現場です。

 


 

津山事件の概要

津山三十人殺し事件

岡山県苫田(とまだ)郡西加茂村大字行重(ゆきしげ)の貝尾部落とその隣の坂本部落を舞台に、1人の青年がわずか1時間半の間に、村人30人を惨殺するという事件であった。

西加茂村は全戸数約380戸、人口約2000人、貝尾部落は全戸数23戸、人口111人、その隣の坂本部落は全戸数20戸、人口94人という小さな村でそれは起こった。

1938年(昭和13年)5月21日午前1時ごろ、岡山県苫田郡西加茂村大字行重字貝尾779番地に住む農業の都井睦雄(といむつお/22歳)は、中6畳の間のこたつに祖母と向かいあった位置で寝ていたが、祖母が目を覚まさないように気を配りながら、そっと起き足音を忍ばせて屋根裏部屋に上がった。

ちなみに、都井の自宅は貝尾部落のほぼ真中に位置していた。都井は祖母と2人暮らしであった。

屋根裏部屋に上がった都井は、黒詰め襟の学生服に、両足は軍事訓練に使うゲートルを固く巻いた。これは青年学校で軍事訓練用に買わされたもので、1、2度しか使用していない新品同様のものだった。そして、地下足袋に足を通した。鉢巻き状に巻きつけた頭の手拭いに2本の小型懐中電灯を取り付け、さらに、自転車用のナショナルランプをひもで首から胸に吊り下げ、さらに、別のひもで胴に固定し、暗闇の中で相手を照らし出すようにした。日本刀1振りと匕首(あいくち)2口を左腰にさしてひもでくくり、この上をさらに皮のベルトでしっかりと締めた。手には猛獣狩り用口径12番9連発に改造したブローニング猟銃を持ち、ポケットには実弾100発を入れ、弾薬、実弾100発を入れた雑嚢を左肩から右脇にかけた。まるで、2本の角が生えた阿修羅さながらである。

この地方では、夜間川漁をするとき懐中電灯1個を手拭いなどで頭上につける風習があった。また、都井が愛読した雑誌『少年倶楽部』(前年の12月号)には剣付き銃(懐中電灯もくくりつけられている)を構えた日本兵が中国人を突き殺そうとしている漫画が載っているので、これに着想を得たようにも思える。

[ 1人目]
午前1時40分ごろ、都井は屋根裏部屋から下り、中6畳の間に入ってこたつでぐっすりと寝入っている祖母のよね(76歳)の首を薪割り用の斧で切断した。首は鮮血とともに50センチほど飛んで転がった。
[ 2人目]
最初に襲ったのは、北隣にある岸本勝之宅だった。ここは5人家族だったが、勝之は呉海兵団に入団中でいなかった。田舎だから戸締りはしていなかった。何度かの夜這いで勝手を知り尽くしていた都井は、奥の6畳間に忍び込んだ。都井は未亡人である母親のつきよ(50歳)と肉体関係があったが、最近になって拒絶されるようになり、村中にそのことを言いふらされていたため、特に強い恨みを抱いていた。猟銃の使用は近所に聞こえると思い、日本刀をそっと抜いて、半裸で熟睡していたつきよの首、胸を突き刺した。刀の先は畳を突き抜けた。最後に口の中にも突き刺した。
[ 3・4人目 ]
続けて、母親の隣に寝ていた弟の吉男(14歳)とその弟の守(11歳)を日本刀でメッタ斬りにして惨殺。妹のみさ(19歳)は仕事のために、寺川千吉宅で寝泊まりしていて、このときは、難を逃れてはいるのだが、都井はみさが千吉宅に寝泊りしていたことを知っていた。
[ 5人目 ]
3軒目は西田秀司宅だった。ここには4人がいた。ここも鍵をかける習慣はなかった。都井は妻のとめ(43歳)と肉体関係が何度もあったが、とめは村中に「何度も挑まれたが断った」と言いふらしていた。都井は4畳間に寝ていたとめの腹部に猟銃を突きつけて発砲した。とめはこの猟銃のダムダム弾を受け内臓が飛び出して即死した。
[ 6・7・8人目 ]
隣の部屋では、3人がこたつに入って寝ていた。長女の大友良子(22歳)と主人の秀司(50歳)と妻の妹の岡庭千鶴子(22歳)であった。都井は良子とも肉体関係があったが、他家に嫁いだ。だが、風邪で寝込んでいたとめを見舞いに、良子と千鶴子が来ていた。都井はそのことを知っていた。都井は良子が帰って来て、村にいるこの日を虐殺の日に選んだ理由のうちのひとつにしていた。3人が銃声で飛び起きたところを猟銃で至近距離から射殺。3人とも体に大きな穴が開き即死した。
[ 9・10人目 ]
4軒目は岸本高司宅だった。ここは4人家族だった。ここも鍵をかける習慣はなかった。表戸から侵入した都井は、ひとつ布団に就寝していた主人の高司(22歳)と内妻の西田智恵(20歳)を猟銃で射殺。妊娠6ヶ月の妻は腹部に銃弾を受けて即死した。智恵は5番目に殺害された西田とめの次女である。
[ 11人目 ]
そのあと、甥の寺中猛雄(18歳)が、飛びかかったが、都井は銃床で殴り倒し下顎を陥没させ、猟銃で胸を撃ち抜いた。
[ 重傷 ]
都井は、うずくまって震えていた母親のたま(当時70歳)の前に仁王立ちになり、落ち着いた声をゆっくりと押し出し、「お前んとこには、もともと恨みも持っとらんじゃったが、西田の娘を嫁にもろたから、殺さにゃいけんようになった」と言った。「頼むけん、こらえてつかあさい」たまは都井の足元にひれ伏して哀願した。「ばばやん、顔を上げなされ」と命じ、銃口で頭を押し上げて胸をめがけて発射した。たまはふっとんで転がったが、奇跡的に一命をとりとめた。たった1人生き残ったたまは「若い者が死んでわしが生き残るとは、神も仏もありゃせんがのう」と運命の皮肉を嘆いた。
[ 12人目 ]
5軒目は寺川政一宅だった。ここは6人家族だった。度重なる銃声で、寺川宅の家族は皆、起きていたが、戸締りをしていなかった。表玄関から侵入した都井は、「何事か」と言って出てきた主人の政一(60歳)の胸を猟銃でぶち抜いて射殺。
[ 13・14・15・16人目 ]
夢中で窓からおもてに飛出した長男の貞一(19歳)の背中を猟銃でぶち抜き射殺。、五女のとき(15歳)と六女のはな(12歳)が、廊下の雨戸を開けて外に出ようとしたところを猟銃で射殺。内妻の野木節子(22歳)を廊下の隅に追い詰め、立ちすくんだところを胸をめがけて猟銃で撃ちこみ死亡させた。寺川貞一と野木節子は6日前の5月15日に結婚式を挙げたばかりだった。
[ 軽傷 ]
四女のゆり子(当時22歳)と都井は深い仲だったが、ゆり子は都井をふって他の男と結婚した。恨んだ都井が新婚の夜の寝室に夜這いをかけたため、ゆり子は離婚せざるを得なくなった。都井はよりを戻そうと図ったが、その後、ゆり子は他の村の男と再婚してしまった。3日前から、ゆり子は帰宅していた。それを知っていた都井がこの日を虐殺の日に選んだ理由のうちのひとつであった。ゆり子は、裏口から素早く脱出し、近くの寺川茂吉宅に逃げ込んだ。都井がもっとも恨んだ、ゆり子は軽傷を負っただけで済んでいる。寺川ゆり子は同年1月9日に同部落の丹下卯一と結婚したが、同年3月20日に離婚させられ、その後、同年5月5日に、他の村の男と再婚した。半月前のことだった。
[ 17人目 ]
ゆり子が逃げたことに気づいた都井は、すぐ後を追った。6軒目の寺川茂吉(当時45歳)宅は元々、都井の襲撃の計画に入っていなかったが、悲劇の巻き添えとなってしまった。ここは5人家族だった。表戸を閉めた直後に、都井がやってきて「開けろ、開けぬと、撃ちめぐぞ」と怒鳴った。離れの隠居所にいた父親の孝四郎(86歳)が雨戸を開けると、都井は孝四郎めがけて猟銃を連射。胸に5、6センチの穴が2つでき即死した。
[ 軽傷 ]
ゆり子と主人の茂吉と妻の伸子(当時41歳)と次男の進二(当時17歳)は、全部の戸を閉め切った。都井は銃を乱射したり、裏戸を激しく叩いた。茂吉はこのままでは全員殺されると判断し、次男の進二に寺川元一宅へ急を知らせ、助けを求めるように命じた。そこで、進二は横入り口から飛び出し、裏の竹薮へ走り込んだが、都井に見られてしまった。都井はすぐにあとを追いかけ、進二も追いかけられたことに気づいたので、竹の葉が密生している藪の中に身を伏せ、じっと息を殺したので、都井の目をくらますことができた。都井は「逃げると撃つぞ」と大声で叫びながら追いかけたが、発砲はしなかった。進二を見失っていたが、裏口の前にきて、さも進二を捕まえたような口ぶりで「こら、進二、白状せよ」「白状せぬと撃つぞ」と大声で2回怒鳴り立てた。妻の伸子は「あんた、進二が捕まったけん」と全身をわなわなと震わせ、泣きながら茂吉にとりすがった。ゆり子も「うちのためにとんだことになったですけん。すまんことです。堪えてつかあさい」と言って泣きじゃくった。茂吉は、こっそりと裏口の戸に近寄り、板戸の隙間から外の様子を覗った。戸のすぐそばには都井が立ちはだかっているが、進二がいないことが分かって安心した。だが、そのあと、都井は「どうしても開けんなら、斧を持ってきて打ち割るぞ」と怒鳴り散らして、銃床で裏戸を激しく叩いたあと、戸の外から家の中に向けて連続2発発砲した。このときの1発が、茂吉の娘の四女の由紀子(当時21歳)の大腿部に命中し、軽傷を負わせている。
ようやく、このころになって断続的に深夜の山間に響き渡る銃声、絶叫や悲鳴で、異常を知った村人が騒然と騒ぎ出した。
[ 18・19人目 ]
7軒目は高台にある寺川好二宅だった。ここは未亡人の母親のトヨ(45歳)と息子の好二(21歳)の2人で暮らしていた。やはり、ここも鍵をかける習慣がなかった。都井は金品によってトヨと情交を重ねていたが、別の男に走り、西田良子と寺川ゆり子の結婚の媒酌人を買って出たのを恨んでいた。都井がさんざん発砲したあとにもかかわらず、そのことに気づかずに熟睡していた2人を布団の上から銃口を押しつけて射殺した。
[ 20・21人目 ]
8軒目は都井の自宅の南隣の寺川千吉(当時85歳)宅であった。ここは、家族6人の他、養蚕手伝い2人の計8人が寝ていた。都井は寺川千吉宅には恨みはなかったが、かつて都井との情交を拒んだ丹下卯一宅の妹のつる代(21歳)と岸本勝之宅の妹のみさ(19歳)の2人が養蚕室で寝ていたところを、猟銃で各2発ずつ銃弾を浴びせた。1人は脳味噌が飛び散り、もう1人は腹部から腸が飛び出して即死した。
[ 22人目 ]

もう1人、同じ部屋で寝ていた長男の朝市(当時64歳)の内妻の平地トラ(65歳)は「堪えてくれ、こらえてつかあさい」と懇願したが、都井は猟銃を2発発砲、腹部が貫通して即死した。

養蚕室を飛び出した都井は、母屋の縁側の雨戸を開けて押し入り、表6畳の間に踏み込むと、こたつに坐りこんでいた千吉を3つの照明が捕らえた。千吉は都井を見上げたが、格別の反応を示さず凝然と端座したままであった。都井は「年寄りでも結構撃つぞ。本家のじいさん(寺川孝四郎のこと)も殺(や)ったけんのう。どないしてやろか」と言いながら、銃口を千吉の首にあて、ちょっと考えてから「お前はわしの悪口は言わんじゃったから、堪えてやるけんの。せやけど、わしが死んだらまた悪口を言うことじゃろな」と言ってニヤリと笑った。

そのあと、都井は表6畳から奥納戸に踏み込んだ。ここでは、朝市が布団にもぐりこんでいた。朝市は都井と千吉のやりとりを聞いて、これは助かるかもしれないと思い、震えながらも寝たふりをした。都井は3つのひかりで朝市を照らすと、いきなり枕を蹴飛ばした。朝市はびっくりして起き上がろうとすると、その胸を銃口で押し戻し「若い者(勲夫婦)は逃げたな。動くと撃つぞ。おとなしくせえ」朝市は都井を見上げて両手を合わせ「決して動かんから助けてくれ」と必死で哀願した。都井が「それほどまでに命が惜しいんか」とからかうように言うと、朝市は手を合わせたまま何度も子供のように大きくうなずいた。「よし、助けてやるけん」と都井はそう言って千吉宅を出た。千吉の妻の寺川チヨ(当時80歳)は床下にもぐりこみ、孫の寺川勲(当時41歳)とその妻の寺川きい(当時38歳)は2階に隠れていた。

[ 23人目 ]

9軒目は丹下卯一(当時28歳)宅だった。ここは3人家族だったが、妹のつる代(21歳)は寺川千吉宅の養蚕室ですでに、射殺されていた。丹下宅にも別棟に養蚕室があり、たまたま、母親のイト(47歳)が、保温用の炉の火の具合を見ていたところに、都井が現れ「娘(つる代)はもう殺(や)った。今度はお前じゃ」と言って、猟銃で連射し、重傷を負わせた。嵯峨野病院に運ばれたが、6時間後に死亡した。卯一は、母屋で寝ていたが、母親の絶叫と銃声で目を覚まし、いち早く脱出して難を免れた。卯一は一時期、寺川ゆり子と結婚していたから、都井の標的の対象になっていたかもしれない。

卯一は西加茂の駐在所に行ったが、巡査が不在だったため、加茂町駐在所へ行き、息をはずませながら、事件の発生を知らせた。約3キロのあぜ道を走り、途中、自転車を借りて20分後に到着した。午前2時40分ころだった。

「駐在さん、大変だ、起きてくれ。人殺しだ」という卯一の叫び声に今田武雄巡査は寝床からはね起きた。窓には顔見知りの卯一が口をぱくぱくさせている。卯一の話しを聞く前に「都井が殺(や)ったか?」と今田巡査は怒鳴った。日ごろから都井の動静が気にかかっていたのである。今田巡査はすぐに、電話で津山署宿直の北村警部補に報告した。隣村の東加茂村巡査駐在所の米沢巡査にも連絡した。消防組の集合の手配も頼んだ。また、医者の手配、万一の場合には鉄道電話を借りることと、この異常事態の発生を報せるために町や村の半鐘を乱打することなどを妻に昂奮して命じ、卯一と共に貝尾部落に向かった。

[ 24人目 ]

10軒目は池山末男(当時37歳)宅だった。ここは8人家族だったが、伊勢神宮に修学旅行中だった長男の洋(当時15歳)を除いて他の7人はここの自宅にいた。都井がここを襲撃の対象に加えたのは、池山末男が寺川マツ子(当時35歳/池山勝市の五女、20歳のとき寺川弘と結婚)の兄だったからだった。都井はマツ子と関係があったが、都井が肺結核にかかったと知ると急に心変わりをした。末男は、裏の雨戸を開けておもてへ飛び出した。このとき、すでに、裏に回っていた都井が末男を見つけるなり乱射したが、末男は夢中で竹薮の中に駆けこんで難を免れた。都井は家の中に入りこむと、猟銃で妻の宮(34歳)の心臓をぶち抜いた。

寺川マツ子一家は危険を察知し、子ども4人を連れて夫と3日ほど前に京都に引越した。このとき5番目に殺害された西田とめを一緒に京都に逃げようと誘ったが、とめは「殺されるほど憎まれてはいない」と言ってその誘いを断っている。都井はマツ子一家が逃げたことを知っていた。

[ 25・26・27人目 ]
さらに、四男の昭男(5歳)に発砲。昭男は肝臓や腸が飛び出して即死した。母親のツル(72歳)は、左肩を弾が貫通して死亡。父親の勝市(74歳)は、必死でおもてに逃げようとしたためか、都井はめちゃくちゃに発砲。勝市は胸を射抜かれた他、全身に6発の銃弾を浴び、肺を露出して死亡した。次男の彰(当時12歳)と三男の正三(当時9歳)は、都井が見逃したのか、かすり傷ひとつ負わずに助かっている。
[ 28人目 ]
11軒目は集落の高台にある村一番の財産家の寺川倉一(当時61歳)宅だった。ここは3人家族だった。倉一は金にものをいわせて、寺川マツ子、岡部みよなど、何人かの村の女と関係していた。都井が坂を登る途中、胸のナショナルランプが消えたが、坂を登り切ると、「倉一はいるかア」と怒鳴りながら、表門から走り込んだ。妻のはま(56歳)がローソクを手に雨戸を開け、何事が起こったのかと、おもてを見渡しているところだった。「2つ目が来るぞい」はまが倉一と長男の優(当時28歳)に振り向いて叫んだ瞬間、都井の猟銃が火を吹いた。はまはローソクを持った右手に弾を受けたが、痛みを堪えて急いで雨戸を閉め、駆け寄った倉一と2人で必死で都井の侵入を防いだ。都井は閉まっていた雨戸に向かって猟銃を5発乱射し、はまの右腕を射抜き、重傷を負わせた。それを見て、倉一は、雨戸を押さえるのを止め、2階へ駆け上がって窓を開けて「助けてくれえ、助けてくれえ、人殺しじゃ、誰か来てくれえ」と何度も絶叫した。高台のため、村人全員にこの声が届いたという。都井は倉一に向けても発砲したが、弾は1階の軒の屋根瓦を貫いただけだった。倉一はあわてて部屋の中に身を伏せた。都井は倉一を諦めここを離れた。はまは嵯峨野病院に運ばれたが、出血多量で、12時間後に死亡した。
[ 29・30人目 ]
これまでは全て貝尾部落での出来事だったが、12軒目は貝尾部落の北西に位置する坂本部落の岡部和夫(51歳)宅だった。都井は約2キロの山腹のけもの道を駆け抜けて、ここにたどり着いている。ここは夫婦2人暮らしだった。妻のみよ(32歳)と都井は何回も関係したが、夫の和夫は、これを阻止しようとあれこれ腐心した。そして、最近では、みよまでが冷たくなっていた。岡部宅は都井の夜這いを警戒していながら、表戸に戸締りをしていなかった。あるいは、寺川倉一のために、みよが錠をはずしておいたのかもしれない。和夫は都井を撃退するために、ごく最近、空気銃を買っている。和夫はこのとき、それを持ち出して応戦しようとした。だが、都井は猟銃で7発撃って、妻もろとも射殺した。

こうして、約1時間半に渡る惨劇は終わった。

午前3時ごろ、岡部宅をあとにして、樽井部落の武田松治(当時66歳)宅に現れた都井は「今晩は、今晩は」と呼びながら、松治らが寝ている部屋に上がりこんだ。松治は都井の姿を見て強盗だと思ったという。都井は「おじいさん、ふるえなさんな、おじいさん、急ぐんじゃ、紙と鉛筆をもらいたい。警察の自動車がこの下まで、自分を追うて来ておる」と言った。松治は紙を探していると、都井は、その部屋に寝ていた松治の孫に「アッチャン、君とこはここじゃな。おじいさんでは間に合わぬ。鉛筆と雑記帖を出してくれ」と言った。孫が鉛筆と書きかけの雑記帖を出すと、都井は雑記帖の一部を破り取り、「なんぼ俺でも罪(とが)のない人は撃たぬ。心配しなさんな」アッチャンには「勉強してえらくなれよ」と言った。都井はそれから急いで出ていった。

孫は「あれが都井じゃ」と言った。そこで、松治は初めて、岡部みよと密通の噂があった都井という男であることを知った。

都井からアッチャンと呼ばれた篤男(あつお)は都井の「お話」を聞きに集まった子供たちの1人であった。

松治は都井が遺書を書くつもりで紙と鉛筆を要求したのだと察したが、小学5年の篤男にはその意味が解からなかった。

都井の自殺死体が発見されたのは、そこから山に3.5キロ入った仙の城山頂であった。

そばには、身につけていた懐中電灯、鉢巻き、日本刀1振り、匕首2口、自転車用ナショナルランプ、雑嚢が体からはずされ並べられていた。地下足袋も脱いできちんと揃えて置いてあった。

黒詰襟の学生服のボタンをはずし、ブローニング9連発猟銃を手に取ると、シャツの上から心臓部に銃口をあてた。両手で銃身をしっかりと握り、右足を伸ばして親指を引き金にかけた。銃声と同時に、その手から銃が1メートルほど吹っ飛び、都井はのけぞって倒れた。即死だった。

 

なぜ「都井睦雄」は、犯行に及んだか。

都井は、当時不治の病と言われた、「肺結核」に犯されており、それが理由で当時英雄視されていた徴兵にも参加することが出来なかった。

また、結核に関する周辺住民の知識不足から、差別的な扱いを受けており、日ごろから住民に並々ならぬ恨みを持っていた。

 「都井睦雄」の家庭環境

  都井家は中流の農家で、父母の夫婦仲は良かった。父方の祖父も肺結核に冒され、62歳で亡くなっていたが

  祖母のよね(当時55歳)と3つ違いの姉の美奈子(当時4歳)がいた。

   1918年(大正7年)12月1日、睦雄が2歳のとき、父親の真一郎が肺結核で死亡した。39歳だった。父親の死後、今度は母親が寝込んだ

   1919年(大正8年)4月29日、睦雄が3歳のとき、母親の昌代が父親と同じ肺結核で死亡した。24歳だった。

   1922年(大正11年)、よねは2人の孫を連れて、自分の里である同郡西加茂村大字行重字貝尾に引っ越した。

  祖母はこの地に永住するつもりで家を買った。屋敷、田畑合わせて500円は倉見の土地山林を処分して作った。

  この家は構えだけは大きく立派であった。よねにとっては生まれ故郷であり、知り合いも多く、気兼ねなく暮らせたが

  美奈子や睦雄にとっては見知らぬ土地であったため、しばらくは2人っきりで遊ぶ日が続いた。

  都井は、学業の成績はかなり優秀であり、担任教師には、「成績がいいから、このまま百姓になるのはもったいないな。

  それに家庭の方も、学資を出せない暮らしでもなさそうだ。どうだ、上の学校にみんか」と言われ、本人も当然、進学するつもりでいたが

  祖母の反対によって、これが叶わないものとなった。

・・・

その他もろもろの事情で、周辺の人たちを殺す計画を立てることになる・・・書ききれないんだよね(@_@;)

 

 

 

 

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